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アンソロという書籍形態 [コミック系]

SSをサイトで公開しています。それだけ見るとアマ二次創作作家のようですが、元はそうではありません。
アマ・オリジナル作家? いえいえ、そういうわけでもありません。本来の姿は「アマ書評家」です。
現在Walkway of the Cloverとして運営しているサイト。この前身は「風鈴館」という名のサイトですが、更に遡って創立当初の名称は「神居図書館」というタイトルで、ミステリーの書評がメインコンテンツのサイトでした。レビュー数はたしか、300冊くらいあったんじゃないかなぁ。

その頃のことを思い出して、と言うわけではないのですが、一冊本を読んでいてふと思うことがあったので、ちょっとお付き合いをば。
レビューというよりは、むしろある種の考察というべきですが。



「ToHeart2 コミックアンソロジーVOL.15」(一迅社)

いきなりこのタイトルでたいへん申し訳ないが、しかし、これから書く内容は砂糖べったりの甘甘ではない。
アンソロと言うことなので、作家によって内容もテイストも、一冊の中に豊富にあるのだが、今回俎上…と言うか、例に取り上げたいのは以下の作品。

「Face to Face」すずかゆう
「フォーチュンクッキー」胡せんり
「FAMILLE」苺畑みなも
「Sweet & Sweet」田渕よしこ
「春一番」羽霜有奇
「たこ焼き友達」天杉貴志
「君が好きな私」みうらひろみ

いきなり結論から書くが、取り上げた作品について共通するキーワードは「再生産」。良い意味ではなく、悪い意味で。
自分も含めた二次創作作家が陥りがちな陥穽として、オリジナル作に寄り添うあまりに、最大公約数的な話になってしまうことが挙げられる。突飛でない、ラディカルでない、尖っていない、主張しない、外れない。どこまでも平坦なストーリーと演出。それはある種の安心感を約束するが、一個の「創作物」として評価する時、オリジナリティの観点からどうしても低く評価せざるを得ない。
二次創作といえど、自己の内面を「表現」として外部に公開すると言う意味において、それは芸術として扱われるべきであり、評価の基準も他と比較して高くも低くもなり得ない(評価される「面」はそれぞれ違うのだとしても)。漫画、音楽、文学、絵画、工芸、演劇、演武、それら既存の芸術あるいは一時創作と比しても、決して劣ったものでも卑屈なものでもない。
それ故に、作者の情動と情熱は創作物に横溢していて然るべきだ。仮にそれが元となる「オリジナル」を否定するものであったとしても、創作者は自己のアイデンティティにかけて、そのエゴを作品に叩きつけなければならない。

前述の作品群にはそれが感じられない。誰かが用意した器に、誰かが通った道を敷き、誰かが考察したテーマを注いだ、いわば複製品、あるいは再生産品であり、創作物として最低限の基準である、「作者の我が儘」がどこにもない。
ひどい言い方をすれば、空気のような作品。

…と、ここまで書くと、単なるぶった切り専門の三流書評家丸出しの恥ずかしい文章だが、ここからがらりと毛色が変わる。そして、ここからがアマ作家ならではの切り口。今しばらくのお付き合いを。

さて、前述のようにカラいことを考えている時、ふと、ある項目のことが気になった。
ページ数である。
多くて13ページ。少ない人はわずか8ページである。

短い。

一つの世界をわずか10ページ前後に詰め込まなければいけないということだ。
さらに、サンプルとして1ページ、文章に起こしてみた。

~~~~~~~~~~~~~~~~
「フォーチュンクッキー」胡せんり 2ページ目

 小麦粉にミルク、バニラエッセンスの甘い香りをキッチンに漂わせなて嬉しそうなお姉ちゃん。傍らのレシピ集は「フォーチュンクッキー」のページで広げられている。いわゆるおみくじクッキー。
 何でまたこんなものを? 普通のクッキーで充分な気がするけどな。中に紙が入ってるなんて、食べにくそうじゃない。
「フォーチュンクッキー作ってるの?」
「うん、簡単だし」
 あたしが声をかけると、お姉ちゃんは調理の手を止めて、こちらを振り返る。
「中から出てくる占いなんてドキドキするし」
 ドキドキ…ね。そんなものなんだろうか。占いに興味のないあたしにはわかんないな。
 でも、そう言ったお姉ちゃんの顔は、それこそバニラエッセンスでも垂らしたみたいな笑顔。
『嬉しそうな顔しちゃって』
 でも、その笑顔が誰に向けられているものなのかを思うと、なんだか複雑。
『どうせ貴明にあげるんだろうけど…』
 あのバカの顔が脳裏に浮かぶ。姉に負けず劣らずのお人好しのあのバカ。お似合い…と言えばそうかもしんないけど、なんだかちょっとムッとする。
 そうだ、こっそりクッキーにワサビでも混ぜてやろう。お姉ちゃんをとったバツなんだから。
 …って、あれ? なにこれ。クッキーに入れるおみくじ…にしては、ちょっと…?
「ところでお姉ちゃん」
「なあに?」
~~~~~~~~~~~~~~~~

ここまでで原稿用紙1枚と3分の2。もう少し膨らませても、せいぜい2枚だろう。
ということは、全体として16枚弱といったところか。
なるほど、この枚数でオリジナリティを出せと言われるのはキツい。まったく無理と言うことはないにせよ、コンスタントに出し続けるのはかなり難しいだろう。すずかゆう氏などは、一迅社アンソロの常連だから、そのプレッシャーは相当なモノと思われる。

そう考えると、前述の作品群に歯ごたえが無いのは、作家連の実力云々よりも、むしろアンソロという形態、あるいは、製作段階におけるページ数割り当てに原因を求めるべきなのかもしれない。
もちろん、"削ること"こそ、ストーリーを基調とする分野における作家の腕の見せ所なのだから、ページ数が少ないことに全ての責任を押しつけるのは間違いであろう。
しかし、創作には"適度"というモノがある。テーマによっては100枚が適当なところを10枚に圧縮しようとすれば、いろいろと削るべきでないものを削らなくてはいけなくもなるだろう。

もちろん、そういうのは他にとっておくべきだ、と言う意見もあるだろう。
しかし、他に発表の場がない場合は、これはもうどうしようもない。代替案があればそっちを描くという選択もあるだろうが、ネタがなければ更にどうしようもない。

この辺りが、彼らプロ作家の悩ましいところ。無理だなんだと言ってみたところで、描かなければ明日のご飯が危うい。ある程度の地位があるならともかく、平社員作家にとってみれば、編集サイドの要求は絶対のもの。その場で原稿を破り捨てられても文句を言えないのが、駆け出しプロ作家という存在なのだ。
12ページ? 8ページ? キツいけどしゃーない。描かにゃ首が飛ぶんだから。そんなノリだ。

では…、そう言った問題を踏まえて、打開案は何か?
単純に考えれば、一作家あたりのページ数を増やすことが思いつく。
しかし、この場合、一冊あたりに収録される作品数はその分減る。すなわち、あぶれてしまう作家が増えるわけだ。
例えば、一作あたり24ページで描かせるとする。一迅社アンソロは全体で150ページ前後だから、単純計算で150割る24で、6作程度しか収録できない。VOL.15の作家数が15人だから、実に9人が仕事を失う羽目になる。
ページ数を増やして全員収録するか?
しかし、24ページかける15人だと、実に360ページにも達する。小説ならともかく、漫画本で360ページはかなり分厚い上、これをやると一冊あたりの単価が上がる。現在ですら900円弱なのだから、1500円以上はカタいだろう。普通に考えて、売り上げは落ちる。オフィシャルグッズなどは少しくらい高い値付けでもいいが、アンソロコミックとなると、コレクターズアイテムとしての価値はあまりないだろうから、高くなるのは不利。
ページ数増は、手段としてあまりよろしくない。
では、巻数を増やすか? しかし、結果として同じことになるのは目に見えている。

そこでふと思いついた。
いっそのこと、Webコミックオンリーにしてみてはどうだろうかと。

例えば、音楽のネット配信は、シングルCDの生産額を既に上回っているという。いずれ、アルバムの生産額をも追い抜いていくことは目に見えていると言っていい。

音楽にできてコミックにできないなどと言うことはないだろう。

そもそも紙ベースの書籍は、将来的に衰退すると言われている。書籍だけではない。新聞ですら、RSSによるネット配信ニュースの前に屈するだろうというのが、既に新聞社内部からもささやかれているのだ。
紙ベースから電子媒体へと言う流れは、既に現実的な足音として聞こえている話である。

その潮流に抗ってみるより、いっそ全身どっぷり浸かってみてはどうだろうか?

それに、アンソロはむしろWeb配信にこそ適しているとも思うのだ。
例えばこんな売り方はどうだろう。一作一作のバラ売りと、ある程度の本数をまとめたパック売りを並列させる。パック売りは、雑多にまとめたものでもいいし、ある程度のテーマ性で統一したお得パック――作品の方向性単位、一作家オンリー、一キャラオンリーなど――を用意するのも良いだろう。読者は、それぞれの趣味嗜好と、お財布の中身に応じて、おのおの好きなタイプで購入すればよいのだ。
紙ベースがお好きな向き用に、ある程度の本数単位で、製本サービスを用意するのも良いかもしれない。コストは高く付くかもしれないが、例えば自分の好きな作品や作家をまとめたオリジナル本を本棚に並べたら、なかなかに嬉しい気分になれるのではないだろうか。富裕層を狙ったサービスとして、ある程度の利益を見込めると思うのだが、どうだろう。

もちろん、そういった販売形態が一般化して行くにつれ、作家ごとの売り上げの振り幅が大きくなることが予想されるから、作家連の生き残り競争は今より激化するだろう。しかし、淘汰される分、生き残った作家や台頭する作家の平均レベルは向上するだろうし、デビューする新人の質も高くなる。

業界にとっても、もちろん読者にとっても、決して損な話ではないと思うのだが、いかがだろうか。

まぁ…、ネットの片隅でこそこそと蠢いている、泡沫Webマスターの妄言と言ってしまえば、それまでかもしれないが。

2007年4月29日 ――神居鈴


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新作書かないと… [コミック系]

最近さっぱり小説を書いていなくって、気がついたら既に1ヶ月以上も新作が出ていない。にも関わらず、カウンタばっかりが回っちゃって、その間のヒット数が1万数千件…。さすがに申し訳なく思っておりましたが、とりあえず懸念事項だった一作を書き上げて、出すところに出しておきましたので、ようやく次から連作シリーズの執筆が再開できます、って結局まだ書いてねぇのかよ。

ちなみに書き上げた新作のほうは、自サイト用ではないのでこちらにはアップしません。Webに流れるかどうかは、先方の裁量次第。まぁ、突っ返されたら、自分とこにアップしますけど(笑。

小説というと、最近ようやく「涼宮ハルヒの憂鬱」(谷川流:角川書店)を読みました。選択肢として小説、コミック、DVDアニメとあったわけですが、やはり自分は小説畑の人間だからということで原作の第1作を購入。
実に10年ぶりのライトノベルですよ。角川スニーカーの装丁、昔と変わっちゃったなぁとかちょっとノスタルジィ。
で、感想ですが、期待した以上に楽しんで読めました。新人作家だからか、前半部は文章の書き方が少ししつこいですが、後半に行くにつれて無駄な描写が少なくなり、テンポよく読めるようになります。意識的に記号化を推し進めた構成エレメントの数々が、読んでいく上でちょっと鼻に付きますが、全体としてみた場合にはそれがある対象への風刺になっていたりして、再読時により楽しめるつくりになっていたり。なかなか一筋縄ではいきません。多分、2作目、3作目以降はもっと文章力がアップしているでしょうから、実に楽しみな新人です(※)。
やはりライトノベル系作家の文章力も向上しているのですね。…ひどいのが多かったよなぁ、昔は。
それにしても、想像していた内容と結構違っていてびっくり。もっと主人公のハルヒが縦横無尽に活躍する痛快な話を想像していたのですが、周囲の人間の艱難辛苦、裏方の努力にスポットに当てているとは。これは続編以降でどうなっているんだろうか。このままのスタイルを押し通すのか、それともだんだんと変わっていくのか。
どうにも…2作目、3作目に手を伸ばさなければいけないようです。ああ、コミックも買って来ようかな。書棚にまた1シリーズ、空きを作らなければいけないなぁ。

※:「もうデビュー三年経過してるよ! 何作も書いてるよ!」との声が聞こえてきそうですが、私のモノの尺度は本格ミステリー界を基準としてるので、デビュー後三年程度は普通に新人さんです。

2006年9月13日 ――白詰草


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近所の萌えコンテンツはこち亀の夢を見るか? [コミック系]

「キター!全国人気 安城のプラネタリウム番組
【愛知県】安城市役所に隣接する市文化センターのプラネタリウムの番組が、一部の愛好者たちの目に留まり、全国レベルでの静かな人気を呼んでいる。番組に登場するオリジナルのキャラクターの声に、人気声優が使われているのが理由らしい」(中日新聞)

…ついご近所にそんな萌えコンテンツがあったとは夢にも思いませんでした(笑。 実は10年以上前に安城市のとある高校に通っていた身ですが、当時からあったっけ…?

それにしても、"萌え"という単語も、ずいぶんあちこちで聞くようになりました。オタク文化がここまで一般化するとは、上京時に秋葉原でバイトしていた頃は夢にも思いませんでしたねぇ。
オタク=日陰者の図式で、オタク自身もそれを望んでいたフシがあり、一般化はイコール劣化と考えられていた時代はもう古いんですかね。…いや、日陰者なのは今でも一緒なのかな?
でも、昔に比べると、ファッションセンスだけは…ほんの少しだけ、あがったかな? メガネにバンダナ、地味な袖シャツにジーパンでキメて、デイパックからポスターのサーベルを伸ばした古式ゆかしい姿は、最近はちょっと見ないですね。まぁ、今でも秋葉原に行けば、ひょっとしたらいるのかもしれませんけれど(現在は愛知県在住です。愛知のオタク街というと…大須かな?)。

さて、萌えブームどころか、マンガもアニメも子供だけのものだった時代から、ただの一度も休載せずに週刊連載記録を伸ばし続ける驚異の漫画、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」(秋元治:集英社)も、ついに150巻です。凄いなぁ。1976年に連載開始だから、私が生まれる2年も前からです。
このシリーズを買い始めたのは、私がまだ東京に住んでいた頃。123巻だったか、擬宝珠檸檬ちゃんがハムスターを飼育する話(1181話「檸檬が泣いた日…」)を読んで、いたく感動したことがきっかけでした。その後、何かに取り憑かれたように1巻から続々と買い揃え始めた私を、当時行きつけだった商店街の、小さな書店のおじさんが奇異な目で見ていたものでした。…ちなみに、それがきっかけで、そのおじさんと仲良くなったり…懐かしい思い出です。
内容も、相変わらずパワフルで痛快です。マンネリ化しているなどと評する向きもありますが、とてもそうは思えません。毎回毎回、手を替え品を替え、似たような題材でも必ず何かひねりを加えて演出する、その抽斗の豊富さと着想の妙は、連載開始当初の、まだ劇画のような作画だった頃から、いささかも衰えは見せていません。
私が本来属しているのは、漫画やゲームではなく活字の推理小説なのですが、こと"創作"という情動について言えば、秋元治という作家はあらゆるジャンルを超えた、創作の神様と言って良い。彼のような情熱を、自分も…たとえ、その発現の方向は違えども、持つことが出来たなら、きっと見ている世界は景色を変える。
秋元先生にはこれからもずっと…それこそ、死してなおペンを持ち続けていたと言われた藤子・F・不二雄先生のように、ずっと創作の道を走り続けてほしいものですね。

2006年6月7日 ――神居鈴


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